vol.12 2009.10-11
理系の人の特徴を面白くまとめた本が人気らしい。僕も環境工学出身で緑化技術者を名乗る理系君である。そんな理系君の同士へアートをすすめたい。という訳で今回は文系、特にアート系の方は読まなくて結構です。理系は女性が少ない分野だし、恋愛という非論理的世界は苦手だとする理系君は多いだろう(決めつけ)。アート系は女子が多い。まぁ大概は我らの苦手とする理論もへったくれもなく感覚的に「良い」もしくは「カワイイ」と騒ぐタイプである。しかしアートも全てが感覚だったりセンスだったりと言うわけではない。僕がいつも言っているのは、アートも科学も世界をとらえる認識を広げてくれたり、変えてくれる点では同じだということである。数字で表現するか、絵で表現するかは日本語で表現するか英語で表現するかと同じで、プロトコルの違いでしかない。まぁ人間が考える事なのだから、その程度の違いでしかない。そのプロトコルエラーさえ解決できればアートはそんなに難解ではなく、面白いものが沢山あると気付ける。そのうち理系アーティストの展覧会や理系の為のアート鑑賞法セミナーでもやれたらと思っている。これが楽しめるようになると世界は広がる。保障します。絶対です。しつこいですが信じてください。これだけ多様なスペックと用途、形状のパソコンを「パソコン」という一語でまとめてしまう言葉の乱暴さ(便利さ)は同意してもらえると思う。同じように「カワイイ」という言葉にも様々なスペックがあり、実は使い分けていると想像したらどうだろうか。アートによる出会いは新しい世界観にとどまらない出会いを用意しているかもしれないよ。(研)

vol.11 2009.8-9
今回より映画のレビュアーが二人になりました。これは物事を複数の視点で見ることで、より正しく見ようという考えをそのまま表しています。「正しさ」と言うものを疑っています。「正しい」と言う人を、どうにも信頼できません。それは正しいという事が、正しくないと考えるからです。正しい人は一人もいない。誰もが間違えている。しかし完全に間違えている訳でもない。一部は正しく、一部は正しくない。だから複数の視点から見ることで立体的に、より正しさに近付くと考えています。その時に「私は正しい」と思っていると、もう一方の視点は意味を成さなくなり、結局正しくなくなります。正しいと言うほど、正しさから遠ざかり、正しくないと自覚することで正しさに近付くことができる。もちろん映画に正しい見方がある訳ではなく、視点の違いを楽しんでいただけばそれで良いのですが正しさの矛盾はとても面白い。「正しいことをするには正しい方法で戦わなくてはいけない」と言った偉人が居ます。戦争反対だから戦争を起こしそうな国に戦争を仕掛けるというのは本末転倒です。別の偉人が言った「怪物と戦う時には、自身が怪物にならないように気をつけなければならない」と言うのはそういう事なのだろうかと思ってみたり。表現する自由が我々にはあります。間違えていることも堂々と発言できます。それは自分自身の表現であると共に、間違いを修正するためのチャンスでもあります。正しい発言をしていては何も変わらず、正しくない発言をすると、指摘をうけたり、恥をかいたりして正しさに近付きます。こうやって文章にしている時にも間違っているのではないか。浅はかなのではないか。更にはイコールのやり方、やっている事、やろうとしている事は間違っているのではないか。悩み続け、これで良い、正しいのだと思ったことはありません。と言うことは正しいのだと思うのですが、そう思ったとたんに正しさはまた遠ざかって行きます。

vol.10 2009.6-7
僕は一杯の水をぶっかける。本当はこの一行で充分である。それ以上は全部蛇足なのだが、そういう粋でカッコイイのは自分らしくないので無様に色々書きたくなる。なぜ書くのかと言えば環境を良くしたいからである。言葉にすると実にシンプル。環境を良くするのは偉い事なんかじゃない。自分の居場所だから居心地良くしたいと思うだけだ。極めて私的な問題である。「こんな社会に誰がした」この発言は誰か悪い奴がいて、そいつが責任を取るべきだ。そんな気持ちを含んで放たれることが多いように思う。しかし誰かが悪いわけではない。そしてシステムの問題でもない。悪いのは誰か。それは皆である。だから全員が共犯者なので誰も罪に問われないだけだ。犯罪じゃなければ罪じゃないというのは愚か過ぎる。歴史が証明するというのも基本的に僕は認めない。結果論だけで話をするほど簡単な事はない。未来の結果にまで責任を持って自分で判断して行動しなければいけない。この社会は我々の同意によって存在している。だから発生している問題の責任はあなたにある。文句があるなら変えるための努力をせよ。まんまと流れに乗っておいて、その流れに文句をいうのは変じゃないか。一杯の水に破壊力なんて無い。ほっとけば乾く。それでも誰かの目を覚ますことくらいは出来るかもしれない。しかし大概はただ相手を怒らせる結果しか生まない。痛い目に合わされてばかりだ。それでも続けるのは、この水をかけ続けるという、地味で、退屈で、決して尊敬されない行為でしか苗木は育たないのではないかと思うからだ。涓滴岩を穿つとも言う。上手くいったとしても、その恩恵を僕が享受することは期待していない。環境を相手にするというのはそういうものだと思っている。自分が半年後に収穫するトマトを育てる行為と、百年後に切られる木材を植える行為の隔たりは時間換算での二百倍を軽く超えていることは用意に想像できる。これが十杯目

vol.09 2009.4-5
我々はいつから文字を読めるようになったのだろうか。文字は生まれつき読めるものではなくて学んで読めるようになる。それは学ばなければ読めないという事である。生き物としてのヒトは歩くことと違って最初から文字が読めるように出来ていない。ヒトにとって読む能力というのは生きる為の必須能力ではないからだろう。しかし文字を読んで知識を伝達するという事で我々の文明や知性が発達したことは疑う余地がないだろう。そういった知的発展が約束されているから我々は文字を扱おうと(作ることも含め)したのだろうか。僕は全く違うと思う。僕は「学びたかった」のだと思っている。進化だって完全な偶然とランダムだとは思っていない。ダーウィニズムは間違えていると思っている。まぁ、それはどちらでも良いのだけれど知的発展は学びが支えていて、学ぶということは考えるということに支えられている。考えるというのは「悩む」のに近い。ということは効率の良いスムースな理解による学びというのは、実は最も非効率的な学びだということになる。これは色々なシーンに当てはまり、効率化をドンドン推し進める企業には実は明日があっても明後日が無いのではないかとも思っていて、そういう意味で社会を観察していると、割と予想が当たったりする。だってチャレンジしない企業に未来はないでしょ。失敗しないチャレンジなんてあるわけ無い。でも失敗があるのは非効率的である。「失敗」や「悩む」ことこそが重要だと信じる私は現代アートが大好きである。見ていて解らないとか、無意味であることが楽しい。学ぶことの有用性や意味を、わかっていて学ぶというのは道具を手に入れているだけである。知識だけあっても知性とは言えない。アートは楽しむもので、楽しいものじゃないと大人には言いたい。

vol.08 2009.2-3
「ネットの時代に紙のメディアは生き残れるか」というテーマを一時期よく見かけた。ネットは検索されなければ存在しないのと同じと言われる。検索されるという事は顕在化した欲求であり、こういうものは無いかなという、潜在的欲求である出会いは、紙など別のメディアでなくては難しいという。とても納得する話である。検索が中心になるネットでは、グーグルのような検索サイトが自動的に情報を探し・選び・並べ替え・見やすく表示してくれる。グーグルで「金沢/ギャラリー」などと検索した画面より優れているサイトは作れないなぁという事実と、出会いを作りたいという思いから、イコールのメディアは紙でしかありえなかった。出会いは難しい。ある書店に出かけて、ガッカリした事がある。その書店で並べられている本がベストセラーと呼ばれるものばかりだったのだ。新聞等で既知の本はネットのレビューだとかを見れば、店舗や紙面と違ってスペースの制限無く豊富な情報を掲載している。書店では真似できないことだ。僕は未知の本との出会いを期待して書店へと足を運ぶ。だから本との出合いの無い書店は何なのだろうかと考え込んでしまった。売れる本を並べないと経営的に苦しいのは理解できる。だけれどもネットとの付き合いを考えたら売れるものだけ効率的に並べるのは自ら首を絞める事になるかもしれない。それとは状況が当然違うのだけれども、アートの出会いというのはどういうことか。アートとより多くの人の出会いをどうすればプロデュースできるのか。既知なものは既に自分で、未知なものを他者とするならば、出会いは常に他者との出会いである。アートは新しい見方(世界観)を見せてくれる。アートが触媒になって出会いを作っているのだから、僕の仕事は「出会いの前の出会い」のプロデュースである。多くの人に見てもらえて、出会いの前の出会いが成功しても、本当の出会いが生まれなかったら、アートとしては失敗なのだろうか。だとすればアートイベントの成功・失敗は意味が無いことになってしまう。

vol.07 2008.12-2009.1
子供の教育をするときには良い結果につながると思われる本や絵を見せるだろう。実際、一流の人は子供の頃からそういった教育環境で教育されたと言うのはよく聞く話である。しかし教育は「こうすれば、ああなる」という因果関係ではない。良書を読み、良い絵を見ても必ず天才になるわけではない。むしろそれだけであれば天才になる確率の方が低い。かといって無意味ではもちろん無く大きな影響力を持っている。私たちも、きっとそうやって親が良いと思うものを、悪いと思うものよりも多く見聞きさせられて育ったはずである。しかし、ある瞬間に思い出すことはあっても、そんな事は普段は忘れている。無意識に影響を与えているのだろうか。子供の頃は親がフィルターとなってインプットされる情報を管理していた。大人になると自分で選ぶようになる。自分自身へのインプット、本を読んだり、アートを見たりする、それは自分自身への教育である。しかし日曜日に眺めるだけでよいのか。七分の六は見ないのであれば、やはりその程度の教育の成果しか上がらないだろう。何か一つの作品を買って、毎日眺めてみる。何か一つの御椀を買って食事してみる。その日から人生が変わったと実感する人もいるかもしれない。しかし多くの人は変化を感じられないだろう。人生は「こうすれば、ああなる」という単純なものではない。しかし、その影響はゼロではない。もしかすると御椀一つが、結婚相手を選ぶ事くらいに二十年後の人生に大きな影響を与えることだってあるかもしれない。幸い人生は一度きり。アートのある毎日と、アートの無い毎日の両方を試すことはできないので、どちらが良いか知る事はできない。良いも悪いも無意味も知ることが出来ないのだから正解なんてない。とりあえずギャラリーへ行ってみて、とりあえず作品を一つ買って二十年後の自分に影響を与えてみる。そう思える人は幸福だと思う。

vol.06 2008.10-11
自分の人生に意味があるのか。何のために生まれたのか。そういった疑問を持った事もあるし、誰かが言っているのを聞いた事もある。クリアな回答をするのは難しい。それは「ある」といえばあり「ない」といえばない。「ある」と「ない」はあまり違わないのでこう言う表現しか思いつかない。「色即是空、空即是色」「無意味の意味」「無という存在は有る」というように言えば少しは伝わるのだろうか。これはある意味「見えるか」「見えないか」と言うことだと思う。ではどうすれば見えるか。それは(広義で)勉強する他に方法はないように思う。すぐに人に聞く人が多すぎるのではないか。「何も知らないもので、教えていただけませんか」という丁寧な態度をとれば何でも質問して良いと思っている人が居る。少し調べればわかる事まで聞いてくる。それは大変に失礼な事である。最低限、自分で調べるなり、考えるなりしてから聞くべきである。本やインターネットで多くの情報が簡単に手に入るようになって、返って調べる事をしないというのはどういう事なのだろう。そんな事では「見える」ようにはならないと僕は思う。生まれた人は皆死ぬ。しかし、それ以外の事は共通しない事だらけだ。自分と全く同じ人生を送る人はこの世に居ない。ということは、あなたの視点、知識はこの世で唯一のものである。その事に気付くかどうか。この世に一つしか無いものが無価値で無意味であるわけがない。気付いて、使うかどうかが問題なのではないか。すぐに「先生先生」と聞かないで、あなたにしかできない研究(なにかを作ること)をしてみてはどうだろうか。それは技術としての可能・不可能ではなく、完成するかどうかも問題ではない。評価を超えた取り組み。この事に気付いたら、しなくてはいけない事は見えるはずである。

vol.05 2008.8-9
主役と脇役とがいる。人はみんな自分の人生の主役。それでも時々思う、僕は脇役でさえなくて裏方なのではないかと。イコールを読むとき主役は特集されている人やイベントで編集者は意識されない裏方になる。色々なアートの企画を作るのもアーティストが主役でプロデューサーは裏方。そんな事をぼんやりと考えている時に気が付いた。僕のテーマは「環境」なのだけれども、その「環境」そのものが絶対に主役にならないものじゃないかと。「主」と「従」で言えば環境は常に「従」である。イコールも掲載されている人やイベントが「主」で、イコール自身は「従」。僕がプロデュースする展覧会でもアーティストと作品が「主」で展示の空間だとか告知は「従」である。ずっと「従」を作っていたんだなぁと。意識と無意識も「主」と「従」だけど無意識の方が大きくて広い。環境というのも何か対象を決めたら、その周り全部だからすごく広い。そんな広くてよくわからない世界。普通は「従」でしかない世界。それが僕のテーマであり、作っていく世界。アーティストが主役のつもりで作っていても、鑑賞者と作品という関係になった瞬間にアーティストも主役じゃなくなる。実は「主」と「従」はすぐに反転するんだけれどね。そんな訳で今回から編集後記は「主」である文字ではなくて「従」である地の部分を「主」として印刷して、本当の「主」であるはずの文字は印刷しないで残った空白という、印刷される・されないでいう「主」と「従」が反転した構成となっています。これはこれからも僕のテーマ(=主)が「環境」であって「従」なんだという決意表明ですが、簡単に反転するかもしれません。

vol.04 2008.5-7
イコールは年四回、三ヶ月に一回発行です。季刊ですと言ったほうが楽なのだけれど、出来る限り言わないようにしています。季刊のものを見ると大概は「春」だとか「夏号」と書いてある。現代の生活で季節と言えば商売道具の一つになっています。ある日、北は北海道から南は沖縄まで一斉に春や秋がやってきます。どうして分かるかというと、その日の朝からコンビニエンスストアの前に春のスイーツフェアだとか、ファミリーレストランで秋の味覚フェアが始るので誰が見ても分かります。春になるとやたらめったらピンク色、秋になるとやたらめったら赤色の旗がひらひら。季節は商売上手です。季節限定商品というのが代表的でしょう。私は季節を自然から感じたいと思っています。あなたは今週咲き始めた花をいくつ見ましたか?花屋さんの花は季節先取りだし、食品にしても季節に関係なく売られている。そうやってみると季節を感じるのが簡単ではない社会だと言えます。それでも夏は暑い。冬は寒いと思われるかもしれませんが、春先だって寒い日もあるし、残暑厳しければ秋も暑い。もしかすると外気温以外から季節を感じ取れない人が増えたから秋が短くなったとか言うのかもしれません。こんな時代に季節と言っても孤独な気持ちになるのでイコールでは春号とか書かないようにしています。この書かれていないという事も大切ではないでしょうか。私たちは書かれているもの、目に見えるものばかりを見て、目に見えないものを見ることが出来なくなってしまっているのではないでしょうか。陰湿ないじめの一つに「無視」と言うのがあります。しかし無視という行為は犯罪でもなんでもありません。むしろ大人になれば喧嘩にならないように、あえて避けたりするでしょう。無視は何か直接的に危害を与える訳ではありません。相手にしない、すなわち表現しないという行為です。しかしそれは十分に強いメッセージです。無視できない存在だからこそ無視することがある。そういう意味では編集は非常に難しい作業です。出来上がったものを見る人は、掲載されている事だけを見るでしょう。編集するときには何を載せるか決めていますが、それは同時に何を載せないかを決めているのです。この地球上で起こっている事、いや宇宙も含めての森羅万象のほとんどを載せない決断をしなくてはいけない。と言うよりも勉強不足から見えないもの、知らないことが多すぎて載せようもない。とりあえず季節については大切にしたいので意識して掲載しない。掲載しないのは軽視でも、ましてや興味の無い無視でもありません。「無私の愛」ならぬ「無視の愛」なんです。なんちって。

vol.03 2008.2-4
遊び心は大人心なんだって。そんな意味不明の言い訳をしてイコールは密かな遊びを楽しんでいます。01号を開くと下端にメジャーが。これは「展開できる特徴を活かして何かしたい」という編集長の我がままと、持ち歩くと便利だというメッセージからの遊びです。02号では白黒判定表(バックナンバーはホームページで見られます)が載っています。「白黒付ける」と言いますが白と黒(そして灰色)って曖昧です。人によって違うし、見るときの明るさでも変わって見える。「白黒ってその程度のもんだよ、ケンカすんな」っていうメッセージと「私はここから黒!」「私はまだ黒じゃないと思う」なんて会話がされているといいなぁとか思って載せました。ちなみに特集はABCになっているのに気付いていましたか? 01号「Artistic Director」の秋元雄史さんから、02号「Brain Science」の茂木健一郎さん、03号「contemode」のcapsuleさん、「Campaign Art」の飯田淑乃さんと来ています。さぁ次回のキーワードはなんでしょう?そういった端っこの企画や、連続して見ないと気付かない隠れ企画を推理しながら編集長からの裏メッセージを読んだりする楽しみ方もあります。ノリは軽くても重いの込めてます。でも、そういうのに気付くのは難しい事です。こう思った人も居るのではないでしょうか「解るわけ無いじゃん」そうかもしれません。しかし、よく似たシーンを私は見た事があります。現代アートを前にした人が同じことを言っていました。ただの白黒から私とあなたは同じものを見ても違って感じる。だったらあっちの国と、こっちの国で見え方が違うのは当たり前だ。自分だって状況が変わると見え方も変わる不確かなんだということ。また 一番端の白(0%)よりも白い白も世の中にはある。一番黒い黒(100%)より黒い黒もある。けれども一般的な紙に一般的な印刷で表現できる白黒はここまで、という現代文明の幅がこの程度だと読み取る人も居るでしょう。そうやって考えることは楽しいことです。私たちの目の前には「ただの白黒」ではなくカラフルな世界が広がっています。もっと色々なものが見えるんじゃないかと遊び心を持たなきゃ。遊び心は大人心なんだって。
 

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文 /中西研大郎
題字/
上田 普